女ひとり寿司
09/11/2020 07:05:43, 本, 湯山 玲子
によって 湯山 玲子
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内容紹介 女はいまや、ひとりで地球上のどこにだって行ける。女ひとりの外食もまた、ごく普通の行為。しかし、その行き場が寿司屋となると、相変わらず敷居が高い。なぜか? そう、寿司屋はカイシャの先輩が後輩に一流の男のエレガンスや粋を伝え、磨くための道場。このご時世、まだギリギリで男が女にイバれる数少ない“聖域”だったのだ! そんな日本各地の有名高級寿司店に単身突撃し、主人の品格から常連客の態度に至るまで、寿司屋という場が呼び起こす特殊な「引力」についてディープに考察。あなたのカレはなぜ、カウンター前だとエラそうに魚のうんちくを垂れ、堂々と不倫ができるのか、知りたくありませんか? 女には入りづらい寿司屋を難易度別に表したミシュラン評価付。 内容(「BOOK」データベースより) あなたのカレはなぜ、カウンターの前だとエラそうに魚のうんちくを垂れ堂々と不倫ができるのか、知りたくありませんか。まだ女には行きづらい寿司屋のミシュラン評価付き。 内容(「MARC」データベースより) 女ひとりでの外食はごく普通の行為。しかし、その行き場が寿司屋となると相変わらず敷居が高い。なぜ? ひとり寿司屋で寿司を食うことにハマった著者が、その体験談を綴る。まだ女には行きづらい寿司屋のミシュラン評価付き。 抜粋 まえがき「女ひとり寿司宣言」 女はいまや、ひとりで地球上のどこにだって行ける。 たとえば、郵便局の窓口で働いている普通のお嬢さんが一週間の休暇をとって、ザンビアの奥地のレイヴパーティや、イルカと泳ぎにバハマに行ってきました、なんていうことは、今や、そんなに珍しい話でもない。 それが、都会であっても同じことだ。家に帰る前に馴染みのバーでチョット一杯、などという行為は、長らくサラリーマンの専売特許であったが、今では、中目黒あたりのシェリー酒専門店では、合コン帰りのOLが、今夜の不作ぶりを一杯のドンゾイロ・ペドロマンサニーリャで厄落とししてから家に帰る、などどいうオヤジ行為を毎夜行っている始末だ。 女ひとりの外食もまた、ごく普通の行為になった。オシャレ&ヘルシー定食屋の『大戸屋』が、あえて店舗を外から歩いている人に見られにくい二階以上に設営してくれた効果もあってか、和洋食問わず、女がひとりで夕ご飯を食べて肩身が狭くないタイプの店は増殖中。二一世紀になってこの方、カフェが大人気だが、その理由の一つは、ひとり飯ができる気軽な店に困っていた女子が、オシャレなどんぶり物である、カフェ飯に飛びついたからである。吉野家関係だって、この不況の嵐の中、二九〇円が出て以降、もはや金欠女のお食事どころだ。 この「女ひとりで外食できない」説というのに、なんで?といぶかしがる人も多いかもしれない。確かにこれだけ多くの働く女がいる今となっては、ひとりメシというのは、都会では男女平等に普通の光景である。 しかしですね、それは若い独身者でのこと。結婚したら共働きでも、ダンナや子どものメシは女の方が作って一緒に食べるのは当たり前という国民感情は意外に根深い。それは、今さらながらにテレビで流されている、マルコメみそのCMなどを見れば一目瞭然。女の適齢期以上がたとえば夜八時に目黒の『とんき』でビールにとんかつをかっくらってひとりメシしているとき、人々はその背後に、公団住宅のダイニングキッチンで、彼女の夫と子どもは冷凍ピザを食べているに違いないという、ほとんど悪業に近いイメージをオーバーラップしてしまうのだ。その女がたとえ、若かったとしても、将来の姿に、それを見てしまうんだから始末が悪い。 また、トイレも遊びもみんなと一緒でなければイジメられるという日本の異様な同調圧力社会で育った女たちは、ひとりメシする自分が、「夕飯を一緒に食べる男も友人もいない寂しい女」として見られることに、ほとんど本能的な恐怖を感じているのだ。現実は、本人が思っているほど、過酷じゃないんですけどね。 というわけで、この一五年ほどで、女の人がひとりで行っても大丈夫な場所というのは、増えているのにもかかわらず、その行き場が寿司屋となると、相変わらず敷居が高い。 なぜか?女が高級寿司屋でひとり寿司を食う、というシーンをごく普通に想像してみよう。 暖簾をくぐると、まず最初に立ちはだかるのは、店の主人とあうんの呼吸ができており、よそ者の参入を決してよく思っていない“常連”だ。二〇〇年続いているクサヤの干物のたれ同様、濃厚な伝統の体現者であるところの彼らのテリトリーに、目元を化粧で光らせた、今どきのチャラチャラ女がまろび込んできたならば、その後の展開は火を見るより明らか。チラチラと目配せされるその視線の意味は、はっきり「女のくせにツウぶって」「ひとりでスシ食うんなら、回転寿司行け」ともの申している。 単に金を払って寿司を食うたびごとに、毎回駒井組に単身、唐獅子牡丹のテーマにのって乗り込んでいく高倉健の覚悟が必要ならば、これでは、はっきりいって身が持たない。 しかし、寿司屋が未だにこのような、男ムードに包まれているのには、これまでのいろいろな歴史の積み重ねというものがあるのだ。 高級寿司屋はオトコがイバれる最後の“牙城”か? 戦後、日本が終身雇用の会社システムでもって、高度成長期を実現させた昭和の時代に、高級寿司屋というのは、そのビジネスに不可欠な接待の有力な場所として、ともに成長していった間柄だということを忘れてはいけない。なんせやる気も才能もある女子総合職をあれだけ辞めさせた、悪名高きニッポンの会社システムである。そのホモホモ男子結社ぶりを、寿司ワールドは完全に継承しているといってもよいだろう。寿司屋は先輩が後輩に一流の男のエレガンスや粋、というものを伝え、磨くための道場なのだ。 たとえば、こんなストーリー。 会社の上司、タナカが、母校ヒトツバシからの新入社員、コバヤシを初めて馴染みの高級寿司屋での接待の現場に連れていく。カウンターで寿司を食べるのなんて、今夜この場が初めてという新入社員の目には、慣れた会話で接待を進め、怖そうな主人に向かって、「今日のコハダは、ちょっと浸かりすぎじゃないの」などと軽口を叩く上司が、なんてカッコよく映ることか。 「よーし、俺もタナカさんみたいに、仕事ができて、寿司屋のカウンターが似合うような一流の男になるぞー」 それから一〇年たって、仕事もバリバリ、シンコや大間のマグロなーんていう、単語がすらっと出てくるほどのいっぱしの常連となったコバヤシが新たに、同じヒトツバシからの新入社員をこの寿司屋にデビューさせるとき、彼はしびれるほどの喜びを感じるに違いない。この幸福なループこそが、ニッポンの会社主義を支えてきた大きな原動力だったのだ。 また、コバヤシはこんな体験もしちゃうはずだ。接待で幾度となく、その寿司屋に連れて行かれ、自腹でも店に通ったりして、黙っていても、主人が特別な一品をつけてくれるようになったところで、彼は密かに思いを寄せている、一般職のサナエをここに連れてくることを思いつく。寿司は回転寿司しか食べたことがないから……とカウンターに座って緊張している彼女は、まるで、一年前の自分のよう。 「ここのオヤジさん、カツオの戻りは脂が強いって言うんで、使わないんだよね」などとポツリとつぶやけば、サナエの目からは、ビリビリと尊敬電波が伝わってきて、コバヤシの内なる “オトコたるもの”はもう、最大級に膨張ド張、でしょう。 そう、グルメでも旅行でも、日々実地体験を重ね、豊富な知識を持っている女に対して、高級寿司屋というものは、このご時世、まだ、ギリギリのところで、男のノウハウの方が勝り、イバリが効く分野なのであった。 寿司屋に不倫カップルがお似合いのワケ 女の客が男のお相伴以外、寿司屋に入りにくいのは、こういった、ニッポンカイシャ主義の男サロンとして寿司屋が機能していたという歴史のほかに、ある種民族的ともいえる、共通認識があるようにも思われる。それは、例の、相撲の土俵に女の人は登ってはならない、という、日本の伝統文化のここかしこに存在する、女人禁制のタブー感と同じものだ。 職人さんたちは基本的に白装束、十分な光量の照明、白木の付け台はいつも真っ白で清潔。といった寿司屋の基本スタイルは、一言でいえば、“清浄感”というもので、これはまんま、日本古来の神道の基本姿勢にも通じていく。そして、神道のまつりごとを司る天皇というのは、オンリー男子と定められているのはみんなが知るところだ。 職人にも、女の人は極端に少ない。カウンターに立って寿司を握る女性は、多分全国でも、一ケタのような気がするが、女の人は体温が高くて手が熱いから寿司は握れないという、まったく根拠のないヨタ話が結構本気で信じられているところに、この問題の奥深さがある(冷え性で悩むのは圧倒的に女性の方が多いのにね)。 以前、飲み会で、女の人が握る寿司屋には行くかどうか、という話題を振ったときも、予想に反して、そこにいた全員が、「行かない!なんだか、気持ち悪い」とはっきりと否定的な意見を述べていたことにびっくりしたことがあった。これが、オヤジならともかく、私なんかとも仲よくつきあっている若者たち(女性含む)の正直な反応なのだからもはやこれは、侵しがたい民族的心情なのかもしれない。 ゆえに、女ひとり寿司というのは、こういう、理屈では解決できない民族心情にもタテをつく、二重にアドベンチャーな行為なのでもあった。 また、こんなことも、考えたことがあった。 寿司屋の職人が男と決まっているのは、女性が握ると寿司が母親の握り飯になってしまって、マズいからではないか、という仮説。 寿司とは、もともと、江戸という当時の世界史から見ても画期的な大都市で生まれた食事で、極めて都会的な食べ物である。なんせ、ひとりでパッときて、ささっと食べてお勘定、という、個的な食のシステムは、それから一七〇年後に、カップルシステムが崩壊した欧米都市での「ひとり飯でも恥ずかしくない」レストラン=寿司バーとして、花開いた実績もあるのだ。 “おふくろの味”を断ち切って、田舎から東京に出てきた“都会人”たちは、だからこそ、都会のシステムが生んだ寿司という食の現場に、母性やおふくろに直結する「女」がいてほしくないと考えてしまうからなのかもしれない。 要するに寿司屋というのは、家から最も遠い飲食スペースとして存在しており、客がせっかく家庭から逃げ込んだと思ったら、またカウンターの中にカアちゃんがいるんじゃマズイ、ということらしい。わからないでもないよね。その感覚。寿司屋は反家庭であり、反共同体ということか。どうりで、不倫カップルにもよく似合うはずだよ。 構造改革とグルメ番組がこれまでの客層を変えた! このように、女ひとり寿司を拒む敷居の高さは、わかって頂けたかと思うが、その鉄壁も今やどんどんひび割れが生じているのは事実なのだ。 まず、第一に挙げられるのは、ご存じの通りこの長期不況が引き金となった、ニッポンのただ今の、大構造改革である。能力主義とリストラと経費見直しが一緒になったこの動きは、真っ先に“接待”という企業文化を直撃した。 来期もそいつが今の部署にいるとは予想がつかない中で、誰がバカ高い接待費を払うのかいう話だし、長い間、年功序列システムが培ってきた、仕事&オトコ道の継承も、上司がせっかく仕事や寿司のノウハウを教え込んでも、その部下が優秀なほど、ヘッドハンティングされる確率も高いわけで、まるで意味がない行為になってしまったからである。 そうなると、寿司屋は本当に自腹で高い金を払って寿司を食べにくるピンのお客を相手にしなければならなくなり、その中には当然、女性客というのも射程に入れなければならない。こういう輩も、太い客(ホスト用語=金払いがいい)として嫌でも歓迎しなければ、寿司屋としても死活問題になってきたのだ。 さらに、接待族の代わりに増えてきたのが、インターネットとテレビグルメ番組全盛時代の申し子たる、個人グルメオタク客である。 彼らは性別は男でも、あの伝統的な会社主義とはまったく切り離された鬼っ子たちだ。これは一見いいことのようだが、会社接待時代にニューカマーが徹底的に先輩やガンコオヤジから有言無言でたたき込まれる、寿司屋での粋やエレガンス、最低限のマナーに関してはまったく無頓着だということを意味する。付け台に寿司がのった瞬間にデジカメで写真を撮ったり、自分のホームページで神をも畏れぬ批評を書いたり、男同士できて、大声でペラペラと寿司のうんちくを語り合ったりする、この新人類は、もはや、寿司屋サイドから見れば男でもなんでもない。 こうなったら、もう、ひとりで寿司を食いにくる、ダンディーな女の方に寿司屋が粋に感じてくれる可能性は高く、やっぱり、女ひとり寿司には、こういった風潮も追い風なのだといえよう。 サイアクだった女ひとり寿司初体験 とはいっても、私が女ひとり寿司行為に手を染めたのは、初めてひとり寿司をしてみて、意外とハッピーだったという、イージーな予想とは違い、大変にいやな気分に落とされたというのがきっかけだった。 ちょっと、そのときのことを思い出してみよう。 妙に消耗するインタビューが、一日に二本も入っていたある日のこと。テクノの来日DJと刀鍛冶職人という、このとてつもない組み合わせも、仕事人生上なかなかあるものではないが、双方とも、ヘンなところで共通点があった。それは、とっても話しベタで言葉が少ないという、典型的なインタビュー泣かせだったということで、夕方近くにすべてが終わったときには、ヘトヘトになっていた。 こういうときは、ストレス解消もかねて、気のおけない友だちと豪華に外メシでもするに限る。と、関係各所に電話したが、ことごとく予定が合わない。気がついてみれば、朝ヨーグルトを食べてきただけの空きっ腹を抱え、歩いているうちになんだか、気分が高揚してきた。ストレスと空腹が重なると、人間、妙なところでハイになることがあるが、まさにそんな感じ。 仕事のときに出てほしかった、やる気アドレナリンが、今頃出てきたようで、「このままじゃ、収まりがつかんわい!」というハナ息もフガフガ荒いような状態。目黒から一駅の私鉄に乗らず、歩いて家に帰ろうとする私の前に、前にも何度かその前を通って気になっていた、一軒の寿司屋ののれんが目に入った。 目黒の住宅街にそこだけぽつんとある寿司屋は、いつも、前にシーマやベンツが停まっており、銀座あたりの名店で修行した職人が開いた、こだわりのある寿司屋の風情を全身で醸し出しているように見える。 そうだ、今夜はここで寿司をひとりで食べてみよう。 なんだかよくわからないが、収まりつかん気持ちの納め先はコレしかない、と、そのときの私は思ったのであった。 ガラガラガラ、と、引き戸に手はかかり、そして、運命の第一歩の扉は開かれた。 一斉にこちらを向く視線を伏し目で無視し、精いっばいの場慣れしてそうな態度で迎え撃つ。 「すみません。予約してないんですけど、食べられますか」と尋ねると、二呼吸ほどおいて、「どうぞ、いらっしえい!」という声がかかった(この、一呼吸ではなく二呼吸というのは、あとで考えれば、予約もなく入ってきた、髪は赤く染めて、ゴルチェのバストパンツをはいている奇妙な女に関する一瞥判断の時間だったと思われる)。良かった!カウンター席は空いている。 私はとりあえず、ビールを頼み、白身の美味しいところを、と、頼んでみた。うん、今日は財布には三万円入っているし、まずは大丈夫でしょう。 そして、マーフィーの法則じゃないが、私はこの後の、望ましい顛末を瞬間、強く心に念じた。最初は讐戒されても、美味しそうにかつ大量に寿司を食べるこの私のケナゲな姿が職人の感動を呼び、会話も弾み、意外にお値段手頃のサービスされちゃったりする、というしごく幸福な未来を、だ。 しかし、すぐさま私は、今現在、この店が女ひとり寿司を受け入れる余裕などまったくないことを理解することになる。 私の左隣には、ガイジン男二人を接待する日本人一名という、寿司屋としては、かなりめんどくさい部類に入るチームが先客として腰を据えていた。そう、この夜、住宅街のはずれにあるこじんまりとした寿司屋は、主人の惑星直列最悪日というか、同時刻にガイジンふたり寿司と女ひとり寿司という、滅多にない邪悪な組み合わせを迎えてしまったのだ。 この場合、我々が想像しうるひとつの幸福なストーリーというものがある。寿司初体験のガイジンに接待役の日本人と店主が一緒になって、“日本文化たる寿司”を紹介するという(昔、ハリソン・フォードが出ていたそんなたぐいのビールのCMがあったよね……)シーンだ。タコにアンビリーバブル、トロにビューティフルを連発するガイジンに、頑固オヤジも片言の英語で応戦し、終いには日本語教室と化す、という教育テレビは英会話教室の寸劇風のアレである。 しかし、その予定調和はこの集団によって見事に裏切られてしまっていた。彼らは、どうも完全にビジネス・ディナーの用途でここを訪れたらしく、顔つき会わせて車の商談激論の真っ最中。しかもガイジン二人は寿司を食べ慣れているらしく、各々勝手に、バンバン固有名詞及びネタ指差しで英語直接注文。 その中には奴らがオゥ!デビルフィッシュと恐れるはずのタコ、イカも普通に含まれており、件のストーリーは成立する隙間もない。もはや、寿司は外国ではエスニック料理のひとつとして定着しているのだから、考えてみりゃ、当たり前、なんであるが。 そして、店内、特に主人を含める職人三人は明らかに店内を席巻する“英語”に完全にヤられてしまっている。神経質そうで眼光鋭い主人は、英語はまったくダメなタイプ。というか、弟子の前で片言の英語を使うぐらいだったら死んだ方がまし、に思ってるフシもあって、カウンターの中はまるで焼香を待つ御親戚一同のように、ひたすら暗い。 「いやあ、急に美味しいお寿司が食べたくなくなっちゃって、気がついたら、店に入っちゃってたんですよォ」 と、話しかけてみた。主人はぴくっと身体を震わせて、「ああ、そうでしたか」とまったく気の入っていない返事を返してきた。私としては、ここにきた動機を茶目っ気たっぷりに告白して、警戒を解いてもらおうとの気配りだったのだが、彼の頭は目の前の“英語”に一〇〇パーセント注意が向いており、はっきりいって私など眼中にない。 彼が厳しい視線を走らせている先に、私は寿司屋にとっての、とんでもない事態を見てしまった。そこには、商談ガイジンの醤油皿の上に、置きっぱなしにされ、醤油を吸って真っ黒になってひからびていくイカの姿が存在していたのである。 老舗で修行して、駅から離れた隠れ家的な場所にこじんまりした理想の寿司屋を始めた主人は、自分の“寿司の味と問合い”を解ってくれる常連さんと理想の寿司屋をこれまで作り上げてきた。口数は少ないが伝統を重んじ、繊細で良い仕事をする主人がイニシアチブを握り、客もその雰囲気作りに積極的に参加する、物言わぬ捉が支配する空間だ。商談ガイジンと女ひとり寿司は、そこに挑戦状をたたきつけにきた、道場破りと同様の存在なのかもしれない。 だけどねえ、ガイジンは英語を使って、おまけに醤油皿にイカを置きっぱなしにするという大罪を犯したが、私はただただおとなしく、気を遣いながら食べていただけ。それとも、なにかね、女ひとり寿司が不作法ガイジンに匹敵する罪ということなのか。主人も若い衆もホントに機械的に私の前に寿司を置いて、プイッと横を向いてしまう。「近くに住んでいるんですか?」ぐらい、聞いてくれたっていいじゃない。 ビールの次に冷やを一本開け、四カン目を平らげたところで追い立てるように、なんとすでにアガリが出てきた。これから、好物のアナゴ、コハダとクライマックスに持っていこうとした矢先に、帰れ、の意志表示である。 「そうは、い・か・な・い・ん・ぜ・よ」と、五社英雄アーンド、ナカグロ入りでイキナリいきり立った私は、冷や二本目に突入。その後、高価ゆえ禁断の子持ちコンブも入れて、一時間以上粘ったが、大方、店の空気は変動なし。ガイジン部隊が帰ったあとも、主人は私を無視し、隅に張りついていたしょぼくれた常連のオヤジとだけ、ぼそぼそとプロ野球の話をしている。 こうなりゃ、若い方の職人がもっと気を利かさんかいと、酔眼でじっと色っぽく見つめてやったら、奴らも奴らであわてて目をそらしやがった。チクショー! もはやこれが潮時と、お勧定を頼んだら、見てびっくり、なんと二〇〇〇〇円と書き付けがきた。そんなこんなで、プンスカ腹を立てて、家路についたのだったが、家に帰って一風呂浴びているうちに、自分の中の気持ちが、「あんな店、もう二度と行くもんか」から、「もう一度、行って主人の鼻をあかしてやりたい」の再挑戦モードに切り替わっていることに、けっこう自分でもあきれはてた。後者の心根には、あの神経質で職人肌の頑固オヤジになんとか自分を認めさせたい、という考えがある。 寿司屋の常連システムを成立させている欲望の構図とは、このようにかなり根が深いものがあるのだ。 日常に最も近くて困難な“冒険” 結局、その店にはそれから行っていないが、私はこのできごとがきっかけとなって、ひとり寿司屋で寿司を食うことにハマっていった。旅や冒険は、なにも、遠くに移動しなくても、日常のそこここに転がっているという考え方が私は好きだが、女ひとり寿司行為はその最たるもの。私は時々、自分がコロンブスや植村直己よりも冒険家だと思うことがある。 季節とその固有の漁場という自然を、職人が腕一本のマジックで味として一体化していくという、世界でも稀な料理思想から出た寿司には、底なしの魅力があるが、今のニッポン、外食のアイテムが多々ある中であえて、寿司屋という場を選んで集ってくる人たちも、また、色濃くおもしろい。 この本は、一見グルメ蘊蓄本の体裁を取っているが、寿司屋という場になぜだか異様に立ち上がってしまう、私たちの住んでいる社会や人間の性、男と女の関係についての観察&考察ノートとして読んで楽しんでいただければ、ホントに嬉しく思います。 著者について 1960年東京都生まれ。学習院大学法学部卒。雑誌や単行本の編集・執筆に加え、広告のディレクションやプロデュースなど、主に出版分野で活躍中。現場主義をモットーに、クラブカルチャー、映画、音楽、食、ファッションなどの文化全般をディープかつ貪欲に掘り下げる独特のスタイルで、業界では知る人ぞ知る名物編集者である。現在『SWITCH』誌ディレクター、日本大学藝術学部非常勤講師。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 湯山/玲子 1960年、東京生まれ。学習院大学法学部卒。雑誌や単行本の編集、執筆に加え、広告のディレクション、プロデュースなど、主に出版分野で活躍中。現場主義をモットーに、クラブカルチャー、映画、音楽、食、ファッションなど、文化全般を広く、そしてディープに横断する独特の視点にはファンが多い。『SWITCH』誌ディレクター。有限会社ホウ代表。日本大学芸術学部非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 続きを見る
ファイル名 : 女ひとり寿司.pdf
女ひとり寿司を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
女性が一人で訪れるには敷居が高そうなお寿司屋さんの訪問記。雑誌のコラムなので、一軒一軒の紹介はさらっとしている。この本を見てお店を知ると言うよりは、寿司屋に行くという行為とは、という切り口のエッセーとして読む方が良いかなと感じた。読みやすいく、短め。ほとんど東京だが、地方のお店も紹介してあったりして、中々楽しめた。
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